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STORY

五代目 和菓子職人の挑戦

2014.03.06
■インタビュー/巖邑堂 内田 弘守

浜松駅から西へ10分ほど歩くと、車の往来が激しい通りに面して、風になびく暖簾が視界に入る。明治初年の創業以来、支店を出すことなく、創業のこの地で地道に商売を続けている老舗和菓子屋・巖邑堂。そんな老舗も今、時代の移り変わりとともに、伝統と変化のさなかにある。守るべき伝統とは、変化する意味とはー。5代目・内田弘守氏を訪ねた。

【第1話】

武士が始めた和菓子屋

最初はいろいろな商売をやっていた

T巖邑堂さんは、いつ頃からあるんでしょうか?
内田初代は明治維新のあとの廃藩置県のころです。岐阜の岩村藩を知っていますか。
T知りません・・・。
内田女城主で有名な藩だったそうです。初代はその岩村藩の藩士だったらしいのですが、廃藩置県で武士ではなくなったのです。当時、浜松市の三方原のほうで鉄が取れるという話があったらしく、岐阜や遠方から三方原に武士が集まったらしいのですが、初代もそのうちの1人で。そのうちにいろいろな商売を始めたらしく、その中の一つが和菓子屋だったということで、それが最初だと聞いています。
T古い文献とか残っていますか?
内田ありましたが、それは祖母がまとめておかなければいけない、という感じで書いたものなので、昔からのものではありません。
Tということは、もともとは岐阜に住んでいた武士が開いた和菓子屋さんなのですね。
内田初代と2代目はその血筋なのですが、3代目からは血筋が違います。2代目には子どもがいなかったので、養子を取りました。その養子に当たる、うちの祖父と祖母が3代目を継いだのです。ですから、5代目だと武士の子孫だと思われがちですが、その辺の百姓の血筋なのです。
Tでは、昔は武士だったという話を聞いても、どこか他人事という感じ?
内田でも、そのほうがカッコイイから、そういうことにしておきます(笑)。
Tなるほど(笑)。

巖邑堂の基礎は、3代目の祖父が築いた

Tレシピは初代が考えたのですか?
内田初代や2代目については実は全然分からないんですが、最初に2種類ぐらいの和菓子を売っていたらしく、そのまま続いていたのです。今のようにいろいろなお菓子ができたのは3代目の祖父の代です。祖父は有名な菓子職人で、各地へ教えに歩いていた人です。たまたま浜松で巌邑堂という店に教えに来て、その後も転々としていたらしいのです。巌邑堂の亭主が、「継がせるならあの人だ」と言ったのですが、三顧の礼ではありませんが、祖父はずっと断っていました。しかし最終的に祖父が折れて、跡を継いだと言っていました。
Tということは、結構年を取ってから跡を継いだってことですね。
内田そうです。
Tおじいさんのご出身は?
内田祖父は群馬の出身です。
Tそうですか!不思議ですね。初代も浜松の方ではなく、3代目に選んだ相手も浜松ではなく、よそから来た人で続いているのですね。
内田昔は、和菓子屋が今のように、いろいろなものを作ることができる時代ではなかったので、腕の良い職人は呼ばれて教えに行っていたようです。
Tで、おじいさんの代に、今の巌邑堂さんのレシピがだいたい出来上がったと?
内田そうですね。祖父の代のものが半分ぐらいです。実は、父が始めたお菓子はひとつもないんです。父は新しい商品を開発することより、伝統のある店を守っていくことを第一に考えていたので。

つづく


■PROFILE

巖邑堂

明治初年の創業以来、伝統の技法で昔ながらの和菓子の味を守る、老舗の和菓子店。定番商品の他、季節ごとの和菓子も人気です。一部の商品は通信販売でも購入可能。浜松駅より徒歩5分。



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